また、長野正孝さんの本を買ってしまいました。
長野正孝「古代史の謎は「海路」で解ける」2015年1月20日刊です。
今度は、コンビニにも、本屋にもなかったので、アマゾンで買ってしまいました。(^_^;)
宅配便の過負担が問題になっているので、
留守の時に来て再配達になったら悪いなあ・・・、
と思っていたら、郵便で来て、ポストに入ってました。
よかったです。(^_^)
先に読んだ「古代史の謎は「鉄」で解ける」の方が、あとで出版されたので、
こちらの方は、内容的にはだぶる部分が多かったですが、それでも面白かったです。
この本では、古い時代から順を追って航海の歴史をたどっています。
最初は、卑弥呼の時代に、倭国から中国の魏に朝貢を行ったこと。
魏志倭人伝の記録からです。
中国は既に漢字を使う文明の時代ですが、日本はまだ弥生時代で、漢字はおろか、
卑弥呼が鬼道を使っていた時代です。
その時代の北九州の海岸線の様子が、下の図です。
前の本にも書かれていましたが、海岸線は今よりずっと内陸まで入り込んでいて、
現在の平野の多くは海の底でした。
鯨面分身の倭国の男たちが素潜りで魚介類を捕っていた豊かな海です。
一方、邪馬台国のもう一つの候補地とされる奈良の纏向遺跡周辺の様子を表したのが、下の図です。
纏向遺跡には、年代的に卑弥呼のものと推定されている畿内で最古の前方後円墳・箸墓があります。
しかし、環境的に見ると、内陸部で、河川交通によって沿岸部とつながっていたとはいえ、
魏志倭人伝に描かれたような沿岸漁業の発達した様子は見られないし、対馬海峡を越えて魏に使いを送るような
海上交通のスキルも見られないので、卑弥呼のいたところというのは難しいのではないかと結論づけています。
そして、前の本でも紹介しましたが、やはり、瀬戸内海の水運の始まる以前に、日本海の水運が開けていたのではないかと
推定しています。
前の本にも載っていましたが、現在より海岸が内陸に入り込み、平野部の堆積も進んでいなかったので、
現在のような出雲平野はなく、外洋から今の宍道湖のあるところまで入って通っていたり、
丹後半島や、能登半島の付け根を、船を陸に揚げて反対側まで通していたのではないかという説を唱えています。
古代の出雲は、下の図のように、宍道湖が外洋とつながっていて、
船で自由に航行できたというのです。
出雲大社が日本で有数の大社になったのは、
この頃からの交易による繁栄の賜ではないかということのようです。
説得力があると思います。
丹後半島の横断ルートを推定したのが、下の図です。
たしかに地図を見ると、距離的には山を越えた方が早そうなのですが・・・。
ホントに船が山を越えたのかなあ・・・。
そして、能登半島を横断して船を引いたルートを示したのが、下の図です。
たしかにグルッと半島を回るよりはるかに近道ですが、約10キロを、
丘を越えて船を引くということが、本当に行われたのか・・・。
しかし、面白い史実が書かれていました。
トルコ全盛時代のムハメド二世は、コンスタンチノープルの攻防戦の時に、
夜陰に乗じてコンスタンチノープルの背後の山を越えて、鎖で封鎖されていたガラダ湾に
70隻の軍艦を降ろし、立てこもっていたキリスト教徒軍の心胆を寒からしめ、戦意を喪失させたという話です。
これは昔、私も月刊誌の図解世界史かなんかで、絵で見たことがありました。
船を引き上げた丘は、標高60メートルほどだそうです。
能登半島のいちばん狭いところの標高は、40メートルだそうです。
う〜〜ん・・・・・・。(^_^;)
微妙なところですねえ・・・。
でも、仮説としては面白いです。
でも、いつかほんとに考古学的に裏付けられるような遺跡が出てきて、
じつはほんとだったなんてことがあるかも。
そうなったらもっと面白いですね。