久しぶりに、古代史の本を読みました。
ちょっと立ち寄ったファミリーマートに、文庫本や新書本、
単行本のスペースがあって、そこにあったので、ついつい買ってしまいました。
著者は、長野正孝さん。
1945年生まれなので、ちょうど私より10歳上。
団塊の世代の先駆けでしょうか。
工学博士で、現役時代は、港湾技術者だった方のようです。
特に面白かったのが、卑弥呼の時代の日本の様子を表した下の図です。
縄文時代から弥生時代に入ったばかりの頃、日本はまだ縄文海進の直後で、
日本列島は平野部のほとんどが海に沈んだ水世界だったというものです。
関東平野も濃尾平野も大阪平野も海の底です。
奈良盆地まで湖の底です。
たかだか2千年前にこんなだったなんて、面白いですね。
それが弥生時代の後半になると、海退が進み、現在の平野部が姿を現すのです。
ホントかなあ・・・。
たかだか数百年で、ホントにそんなになったのかなあ。
「古代史の謎は「鉄」で解ける」P39より引用
下の図は、卑弥呼時代の倭国という図です。
上の図と比べると、海岸線は現代のものです。
現在の地名に当てているので、しかたないですが、
本当なら上のような地形に乗っていたということでしょうか。
それにしても、倭国が朝鮮半島の南端から、九州北部、
中国地方の日本海側の沿岸一帯であったという説はおもしろいです。
北九州でも、畿内でもなく、海洋民族が交易をしていた広い範囲が
倭国だったなんて、港や運河を専門にしていた人しか思いつかない発想でしょう。
でも、案外当たっているかもしれません。
とすると、中国の魏で女王とされた卑弥呼は、このあたりに住んでいた
航海の無事を祈る占いを行っていた巫女だったが、
魏志倭人伝を書いた魏の役人は理解できず、女王と記したのではないか
と言っています。
それも案外当たっているかも。
もう一つ面白かったのは、この時代、瀬戸内海は潮流が激しく、まだ、
物流のための航路ができていなかった、
つまり「通れなかった」と言っていることです。
もちろん、一つの入り江から、隣の入り江へというように、隣近所同士の
交流はあっただろうけど、瀬戸内海を東西に一気に横断するような航海は、
卑弥呼の時代には、まだ行われなかったと。
また、少し時代が下っても、瀬戸内海は各地に海賊が跋扈するところで、
自由に往来できなかったと言っています。
これもおもしろい意見です。
素人考えでは、波の荒い日本海より、瀬戸内海の方が穏やかで、
交易に向いているのではないかと思っていました。
「古代史の謎は「鉄」で解ける」P52より引用
もう一つ面白かったのは、この人は実際に多くの海や川を渡っているだけあって、
倭人の時代の手こぎの船の航海は、かなり海流に左右されることが多く、
朝鮮半島への行き来にも、行きと帰りで経路が違っていたと。
下の図がそれです。
もし、対馬海流を考えず、行きと同じ経路を通って日本に帰ろうとすると、
対馬海流に逆らって進むこととなり、
遙か彼方の日本海に流され、海の藻屑となってしまっただろうと。
手こぎの船では、あり得ることかなあと思います。
「古代史の謎は「鉄」で解ける」P25より引用
その他にも、倭国大乱は、高句麗の南下によって引き起こされたとか、
前方後円墳は、交易のための公設市場だったとか、にわかには
信じられないような説もたくさん述べられています。
しかし、弥生時代の巨木を使った施設は、神殿などの祭祀遺跡ではなく、
海から来る旅人や敵を見張るための望楼であるとか、
交易のための施設には、台所やトイレなどもあったなどという説は、
とてもわかりやすく、あり得るかなあ、と思ってしまうのです。
私が大学で古代史を学んだ頃には、まだ、江上波男の騎馬民族征服説が、
「ホントかなあ・・・?」
と疑問符付きながら影響力を持っていた時代だったのです。
それからすると、考古学の成果も増え、かなり科学的に卑弥呼の時代から
古墳時代まで、検討される時代になりました。
いい時代になったものです。