久しぶりにすごい人の本を読みました。
中田 力(つとむ)さんの、「日本古代史を科学する」です。
中田さんは、1950年生まれで、私より5歳上の今年67歳です。
何がすごいかというと、その経歴です。
なんと東大の医学部を出て、アメリカに渡り、アメリカの大学で研修して
アメリカの大学の教授になり、MRIの世界的権威になって
日本に戻ってきた方だそうです。
バリバリの理系です。
そんな人が何で日本古代史に興味を持ったのか、興味を引かれました。

この本で初めに扱っているのは、邪馬台国の位置です。
理系の方らしく、考え方は非常に理論的で、説得力があります。
朝鮮半島の帯方郡から末廬国(唐津)までの経路は、ほぼ間違いなくたどれるのですが、
その後の伊都国と奴国の位置が問題だとされています。
というのは、例の金印が博多の志賀島で発見されているので、
いままでのほとんどの論考が唐津から東の方へ進路を求めているのです。
ところが、魏志倭人伝には、末廬国から東南に陸行すると書かれているのです。
筆者はそのとおり、唐津から内陸に入ったと読み解いています。
たしかに、筆者のいう通り、東に行くなら、そのまま船で水行した方が合理的です。

同書 P58より引用

そして、伊都国と奴国、さらにその先の不弥国の位置を、
下の地図のように推定しています。
非常に説得力があります。

同書P62より引用

そして、現在の佐賀平野の地形は下の地図のようになっていますが、
卑弥呼の弥生時代には、海の堆積が進んでおらず、
この地図の下の地図のようになっていたと推定しています。

同書P63 より引用

長野正孝さんの本にあった弥生時代の海岸線と同じようです。
これも非常に説得力があります。

同書 P63より引用

そして不弥国から、次の投馬国へは、魏志倭人伝では、
また水行になっているが、
これは有明海を水行したのだという。
これも説得力がある。
しかし、魏志倭人伝には距離が書いてなく、ただ日数だけで20日と
なっているそうです。
中田さんは、魏の使者が倭の粗末な船に乗るのを嫌い、
そこから先は従者を遣わしたか何かして、
自身は実際に行かなかったからではないかと推定しています。
しかし、不弥国とされる佐賀市から中田さんが投馬国と想定する熊本市まで、
水行20日というのは、私にはどう見ても多すぎるのではないかと思われるのです。

同書P68より引用

有明海も、このようになっていただろうことは想像がつく。
これも納得がいく。

同書P69より引用

魏志倭人伝では、中田さんが投馬国と推定される熊本から、邪馬台国まで、
さらにまた水行10日、陸行1月とあります。
熊本から中田さんが陸行の開始地点と推定される八代市まで、
さらにまた水行10日かかるというのも、
私にはどう見ても多すぎるように思われるのです。
さらに、八代から中田さんが邪馬台国と考える宮崎市まで陸行1月というのも、
どう見ても長すぎるように思えるのです。
魏志倭人伝も、ここら辺の日数はかなり怪しいのではないかと私には思えるのです。
とすると、やっぱり邪馬台国の位置は、まだ不確定な要素が多いみたいに思えるのです。
宮崎には、西都原古墳群があるというが、そこに卑弥呼の墓とおぼしき
奈良の箸墓古墳に匹敵するような古い古墳があるのだろうか?
あるとしたら有力な候補地といえるのだけど・・・。
私のこれからの研究課題です。(^_^)

同書P73より引用

次に驚いたのが、数式を使った天皇の年代別のグループの在位年数の比較です。
中田さんによると、敏達天皇以後の天皇は、実在が確実で、
下のグラフのように現代の天皇に至るまで、
平均すると次第に在位期間が長くなる傾向があるそうです。
ところが、敏達天皇より前の、いわゆる実在が疑われるような天皇は、
古くなるほど在位期間が長くなり、
初代の神武天皇のグループなどは、在位期間が平均で60年を超えています。
平均寿命の短かった古代にはあり得ない在位期間です。

同書P89より引用

ところが、実在の天皇の在位期間から割り出した数式により計算すると、
当時の天皇のグループ別の平均在位期間が割り出され、
それを元にすると、神武天皇までの在位期間と、およその即位時期が割り出せるのです。
それをグラフに表したのが、下のグラフです。
もちろん、全ての天皇が実在したという仮定に基づいてですが。
それによると、神武天皇の即位した年は、西暦282年、弥生時代の終わり頃です。
そしてそのころの天皇の平均在位期間は10年で、
その後の敏達天皇の前の天皇まで、ほとんど変わっていません。
中田さんは、古事記・日本書紀の編者の知性を信頼し、
現在の科学者と同じ認識能力を持っていたと考えています。
その編者たちが、当時の正確な記録を残しているはずで、
でたらめな記述をしたはずはないと考えています。
たしかに、全くの作り話であったとは思えませんが、かといって、
そこまで正確に分かるものなのかなあ・・・、
と言う気持ちはぬぐいきれません。

同書P91より引用

次に驚いたのが、アジアの各国の人の染色体の比較から、日本人の、
とくに弥生人の出身地を割り出していることです。
下のグラフにあるように、日本人の染色体には、中国やモンゴル人にはない
Dのハプロタイプを持つ男性が多いのだそうです。
これは、易姓革命により支配層の大変革が起こる中国の政変を反映しており、
中国で起こった政変により、大陸を逃れた旧王族や難民が船に乗って日本に渡り、
中国本土とは違った遺伝子を持つ日本人を作り出したという考えのようです。
その最初が、中国の戦国時代の呉の国の人々で、これが日本に稲作と弥生文化を
もたらしたと考えているようです。
中田さんは、その時期を紀元前473年に越によって滅ぼされたときと考え、
難民たちが定着したのが九州の博多と考えています。
そこに建国したのが金印の出土で有名になった奴国と考えています。

同書P115より引用

そのことは、稲の遺伝子にも現れていて、下の図のように、RM1−bという遺伝子は、
中国の南部に多く見られる遺伝子だが、朝鮮半島にはまったく見られず、日本の九州や
西日本に多く見られるそうです。
これはつまり、日本の稲作は、朝鮮半島経由ではなく、中国南部から、呉の難民によって
東シナ海を渡って、直接日本に伝えられた証拠だと述べています。
たしかに、bという遺伝子だけを見ると、朝鮮半島にはありません。
でも、日本には、aやcの遺伝子もあちこちに見られます。
それはどこから伝わったのでしょう。
やはり、長野さんが考えたように、朝鮮半島から伝わった稲もあったんじゃないでしょうか。

同書P118より引用

さらに中田さんは、邪馬台国の出自も、中国に求めています。
秦の始皇帝の時代に、徐福に率いられた若い貴族たちがたどり着き、
建てた国が邪馬台国であろうと推定しています。
場所は、前述の宮崎です。
そしてその次には、出雲神話へ続いていくのですが、
ここにも中国からの王侯貴族の難民がからんでいると推測しています。
先に呉を滅ぼした越の国です。
越も独特の文化を持った国だったそうですが、出雲で出土した銅鐸や、
出雲大社の大社造りとそっくりな遺物が、最近、中国の越の遺跡から
出土しているそうです。
その越王朝が、楚によって滅ぼされたとき、日本に避難してきた王侯貴族たちが
出雲や越の国を開いたのではないかと推測しています。
越と書いて、「こし」と読ませるのも、そのことと関わりがあるのではないか
ともいっています。
このあと、四王朝説では、神武王朝、崇神王朝、応神王朝、継体王朝について、
古事記や日本書紀などの文献を中心に推理を進めています。
神武東征も、神功皇后の事績も史実を元に記述されたものと考えているようです。
これを証明するような考古学的な遺跡も遺物もないので、
ここら辺は今のところ、推測の域を出ません。
しかし、吉野ヶ里遺跡や三内丸山遺跡のように、今までの常識をひっくり返す
遺跡や遺物がこれから出土しないとは限りません。
そんなことを期待させるような本でした。