昨日の雨と打って変わって、4月24日は快晴になりました。
朝は、ちょっと雲が出たのですが、その後、風が強くなって、雲を吹き飛ばしました。
今日もまた、西浦の古宇から真城峠へ登り、達磨山レストハウスまでやってきました。
レストハウスの駐車場には、車と、たくさんのバイク乗りが休んでいました。
1人で山梨から来ていたCBR1000RRのライダーと立ち話をしました。
山梨からちょくちょく来ているそうです。
海と山があっていいですね、と言っていました。
富士山頂も、一時、雲に覆われたのですが、風で吹き飛ばされています。
いつものように修善寺でコーヒーブレイクの後、また、戸田峠まで戻って、
金冠山トンネルをくぐって、木負へ下りてきます。
その途中で、源三位頼政の奥さんの菖蒲御前の墓によりました。
立派な墓が建っていますが、墓石には何も書かれていません。
入り口には、頼政公・菖蒲之前墓所と書かれていました。
山道を挟んで、墓所の反対側には菖蒲塚という石碑がありました。
京都で亡くなった源三位頼政公が葬られたとは考えにくいので、
奥さんの菖蒲御前の墓所と思った方がよいでしょうか。
墓と菖蒲塚のあるところからは、遙か遠く、下の方に江の浦湾が見えます。
ここがかなりの山奥であることがわかります。
墓所のすぐ下には、禅長寺 頼政堂があります。
菖蒲御前は、伊豆の長岡出身で、帝の寵愛を受けた宮廷女官だったらしいですが、頼政に見初められました。
同じくヌエ退治などで帝に気に入られていた頼政は、帝から後ろ姿の5人の女官の中から
菖蒲御前を当ててみよと言われて、見事に言い当て、ご褒美に菖蒲御前を授かったというお話です。
その後、頼政は以仁王の令旨を得て挙兵するも、あえなく敗退。
菖蒲御前は出家し、故郷の長岡の古奈の西琳寺に来たそうですが、平氏の追補の手が伸び、
西浦の奥地の木負まで落ち延び、ここで供養三昧の日を送ったとか。
この地に頼政堂が建てられたのは、さらに後の時代になってからで、
頼政の子孫たちが建てたらしいのですが、現存する頼政堂は、江戸時代の初期の再建らしいです。
それでも、市内では最古の禅宗様式の寺だとか。
入り口の前の階段の横には、大きな細長い石碑に、「上古女人遠流之地」と書かれています。
木負という地名は、奈良平安時代には、「棄てる妾」と書いて「きしょう」と読んだとか。
つまり罪を犯した宮廷などの女官などの島流しの場所だったことからきているとか。
とすれば、菖蒲御前は、自ら逃れてきたのではなく、ここに配流されたのでしょうか。
どっちにしても、この地で89歳まで長生きし、頼政公の菩提を弔ったそうなので、
とても大事にされたことは確かです。
今回も、山道、峠道、DRで越えてきました。
全行程75キロでした。