久里浜探訪

今回の探訪先は、神奈川県久里浜、ペリーの上陸地点です。
テレビでは見たことありますが、実際に見たことなかったので、出かけました。
沼津から国道一号線を東に、箱根を越えて箱根新道で小田原におります。
そこから今度は西湘バイパスを通って、一路鎌倉へ。
そこからさらに南へ下って、逗子を通り、三浦半島の突端、三崎漁港まで行きます。
そこから東へ向かって、浦賀の手前、久里浜が目的地です。

箱根越えに約1時間。
そこから1時間弱で西湘バイパスを通り、江ノ島まで来ました。
ここは片瀬漁港。
江ノ島が指呼の間に見えます。
川を挟んで向こう側に、江ノ島まで歩いてわたれる橋がありましたが、今回はパス。

江ノ島は、「真白き富士のね 緑の江ノ島・・・」の歌で有名な、でもないか。
明治時代の昔、逗子の旧制開成中学の学生たちが、この近くで遭難して12人が亡くなり、追悼に作られた歌だと聞きましたが、
知りませんよねえ、そんな歌。(笑)

「真白き富士の根」  作詞:三角錫子
               作曲:ジェレミー・インガルス

    一、真白き富士の根緑の江の島   仰ぎ見るも今は涙
      帰らぬ十二の雄々しきみ霊に  捧げ奉る胸と心

    二、ボートは沈みぬ千尋の海原   風も浪も小さき腕に
      力も尽き果て呼ぶ名は父母   恨は深し七里ヶ浜辺

    三、み雪は咽びぬ風さえ騒ぎて   月も星も影をひそめ
      みたまよ何処に迷いておわすか 帰れ早く母の胸に

    四、御空にかゞやく朝日のみ光り  暗にしずむ親の心
      黄金も宝も何しに集めん    神に早く我も召せよ

    五、雲間に昇りし昨日の月影    今は見えぬ人の姿
      悲しさ余りてねられぬ枕に   響く波のおとも高し

    六、帰らぬ浪路に友よぶ千鳥の   我も恋し失せし人よ
      つきせぬ恨に泣くねは共々   今日もあすもかくて永久に

現在の逗子開成中学・高校のホームページからの引用です。
http://www.zushi-kaisei.ac.jp/index.html

なぜこんな歌を知っていたのか、自分でも定かではありませんが、
高校の頃、昔の旧制中学にあこがれていて、三校の寮歌「紅萌ゆる丘の上」や、
一高寮歌「嗚呼 玉杯に花受けて」などの旧制高校の寮歌にあこがれていたことがありました。
きっとその頃、どこかで聞いたのだと思います。
もちろん全曲通して知っていたわけではありません。

それはともかく、江ノ島は思っていたより大きく、海は静かで穏やかでした。

お次は、稲村ヶ崎です。
知ってます?
七里ヶ浜の磯伝い 稲村ヶ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場」

知りませんよねえ、そんな古い歌。(笑)

かなり深い海です。
ほんとに新田義貞はここを渡れたんでしょうか。
極楽寺坂の切り通しを通った方が早くて確実なような・・・
なんて言うのは、やぼですね。(笑)

混んでる鎌倉はすぐ通り過ぎて、逗子を通って、三浦半島を縦断して、とうとう三崎港までやってきました。
沼津の港湾みたいな所です。
ここまで来るには、道が細くて渋滞していて、とっても大変でした。

その港にあった大きな土産物売り場の駐車場にバイクを止めます。
おみやげにマグロのトロの角煮を買いました。

魚目当ての車やバイクがいっぱいいました。

お昼近くになったので、立花というマグロ料理屋でマグロの漬け丼を頂きました。
大変おいしかったです。

食べ終わって、時間は11時53分。距離は110qでした。
いよいよ久里浜に向かいます。

三浦半島の突端から、ちょっと戻って、半島を東に横断して、着きました。
久里浜、ペリー記念公園です。

道から大きな記念碑が見えました。

北米 合衆国 水師 提督 伯理 上陸記念碑と書いてあります。

裏面には英文です。
建てられたのは、なんと明治34年です。
日米友好協会みたいな団体がすでにできていたらしく、その団体が建てたそうです。
かなり早くから建っていたことに驚きました。

私としては、日本がアメリカに無理矢理、開国をさせられたものだから、きっと明治時代の人たちは
アメリカのことをよく思ってなくて、きっと最近作られたものではないのかな、
と思っていたのですが。
外れですね。
かえって、明治の人々は、日本を早く鎖国から開明に導いてくれた国として、アメリカをよく思っていたのでしょうか?
まあ、両方の考えが昔からあったのでしょうね。

・・・と、思って調べてみたら、この書を書いたのは伊藤博文だそうです。
日露戦争の頃で、何としてもアメリカを味方に付けたいという思惑があったとか。
なるほどそういうことでしたか。

公園の中には、ペリー記念館がありました。
ペリーの生い立ちや、日本での様子、家族との手紙のやりとりなどが展示されていました。
ペリーは日本に来たとき、すでに60歳過ぎていたそうです。
当時の船で、2ヶ月かけて太平洋を渡るのは、大変な心労だったと思われます。
2度目の来日で、日米修好和親条約を結んだあと、帰国したペリーは、5年後に亡くなっていました。
65歳です。
当時としては長生きだったかも知れませんが、2度の訪日が効いたであろうことは想像に難くありません。
アメリカ側も、大変だったのですね。

黒船は、浦賀にやってきたとされていますが、正確には浦賀沖で、上陸地点は久里浜でした。
今も久里浜は白い砂浜で、波静かです。
ペリーは、日本側がどのような対応を取るかわからなかったので、山が迫り、狭くて見通しのきかない浦賀より、
広い砂浜があり、何百名もの海兵隊員を展開できる久里浜を上陸地点に選んだのかも知れません。
ペリーが司令官を務めた4隻の艦隊の艦長たちは、いずれも非常に優秀な艦長で、そうした作戦計画も、
きっといっしょに立てたのでしょう。

それとも幕府側で、久里浜を指定したのでしょうか。
幕府が応接所を建てて、そこで会見したとあります。

下田もそうですが、なんで日本の海岸なのに、道路の並木道が椰子の木なのかな。
浦島太郎の昔から、日本の海岸と言えば、白砂青松で、松の木でしょうにね。(笑)

さて、いよいよ帰りです。
帰りは、横浜横須賀道路を使って、一気に三浦半島を北上します。
行きの狭くて渋滞した道には懲りました。(笑)

この時点で、折り返し地点、12時49分、距離は125qでした。

横須賀インターチェンジで有料道路を出たら、まだ逗子に遠いことがわかって、もう一度有料道路に乗ったら、
進行方向を間違えて、また久里浜の方へ戻ったりして、ずいぶん時間と距離をロスしてしまいました。
ちゃんと地図を見るか、カーナビ付ければよかった。
ここは西湘バイパスのパーキングエリア。
ちょっと休憩。

ここにもライダーたちが大勢いました。
けっこう若いのも、年寄り(失礼・笑)もいます。
この時点で、午後3時、距離は198qです。

その後、小田原から箱根新道に入って、箱根を越えて、家に帰り着いたのは4時30分、距離は247qになっていました。
あっちこっち迷ったわりには、ちょうど行きの2倍弱ですね。(笑)